幕張ベイタウンについて想うこと(後編)
2023.01.13

パティオス11番街(M7-1街区):お手伝い時期1995年頃

11番街はベイタウンの中で最も有名な街区だと思います。世界的な建築家スティーブン・ホール氏が設計されました。この街区は3番街等に代表されるベイタウンの標準的な街区よりも長辺が長く、約70×135mです。ここにホール氏は、ひらがなの「の」の字の住棟配置を提案しました。
ホール氏は、規則的な開口が繰り返される「サイレントビルディング」と呼ばれる基壇部と、様々な場所に点在する「アクティブビルディング」を、対比的なデザインとして提案しました。
前述のとおり、ベイタウンでは、街区ごとに複数の設計者を起用し、立面が縦方向で切り替わることを前提としています。しかし、ホール氏の提案は、この原則に従っていなかったため、ベイタウンの全体調整会議で様々な議論が交わされました。最終的にはホール氏の提案が承認され、3番街の1年後の平成8年3月に竣工しました。
当時はインターネットやメールガ普及しておらず、ホール事務所とのやりとりは常にFAXで行っていました。日米で設計を進めていたため、日本で夜まで働いて帰宅前に国際FAXを送ると、翌朝には返信FAXが届いてます。時代はバブルの後半、まさに「24時間戦えますか」の世界でした。
11番街の計画は、前述のセントラルパークと同時期にスタートしました。私はちょうど3番街の実施設計を終えて後は現場監理という状況でした。上司から「石嶋は次はM7-1とSH-1、どっちやりたい?」と聞かれました。他にもプロジェクトはあったのですが、次もベイタウンの担当ということは決まっていたようで、完全に沼から抜け出せなくなりました。
11番街は当初から、ホール氏が企画設計を行うことが決まっていたため、ボクは自由度が高いセントラルパークを選択しましたが、手が空いた時は実施設計のお手伝いをしました。
最初はどんなものができあがるのか少し不安でしたが、できあがってみるとサイレントビルディングとアクティブビルディングの対比的なデザインは素晴らしく、中庭や住棟下の水盤は周囲に美しい水影を映し出しました。




幕張ビーチテラス(H2-2街区):2003年10月〜2007年3月
セントラルパークの次に担当したのが、幕張ビーチテラスです。
セントラルパーク以降、三井不動産グループと清水建設グループは、共同事業体制で進めることになりました。しかし、幹事企業が変更になり、セントラルパークが三井不動産グループが幹事だったのに対し、ビーチテラスは清水建設グループが幹事となりました。
計画設計調整者は、デベロッパーと一体ですので、ビーチテラスの企画設計と設計調整を行うのは曽根さんではなく、清水建設グループの計画設計調整者である故・大村虔一先生が担当することになり、曽根さんはひとりの住棟設計者として参加しました。
大村先生は元々都市計画設計研究所という都市計画事務所を主宰され、都市計画の第一線で活躍されてきましたが、この頃は事務所を離れ、母校の東北大学で教授をされていました。そのためスタッフがいなく、研究室の卒業生で仙台市で活動しているNPO法人(都市デザインワークス)のスタッフを担当者にしましたが、東京にいる事業者とのやりとりが難しく、ベイタウン計画での経験を重宝されたため、曽根さんの事務所に所属しながら、大村先生のスタッフとして働くことになりました。
都市計画家である大村先生が考える企画設計はとても刺激的でした。ビーチテラスは海に面した街区であり、海に面した場所に多くの住宅を配置すれば、高く売れると誰しもが思いますが、大村先生は、海に面した場所を大きく開けて、多くの住宅から海が見える方が街区全体としての価値が高くなるかもしれない(利益が大きくなるかもしれない)と考えました。
デベロッパーから加点表をもらい、日当たり、方位等、多くの要素をエクセルに入力して総得点を算出したところ、海側に住宅を多く積んだ案よりも、海側を大きく開けた案の方が得点が高かったため、デベロッパーも納得し、企画設計図が完成しました。
その後私は、大村先生の下で設計調整チームの一員として働きましたが、師匠の曽根さんに対しても「企画設計の理念とは異なるため、その提案は不可です」とダメ出しをする等、下剋上の状態で仕事をしました。
この業務中に私は曽根さんの事務所から独立しました。そして、集会場・駐車場棟・中庭の設計監理業務を、清水建設グループと三井不動産グループから事務所の最初の仕事として受注することができました。
詳しくは、幕張ビーチテラスのページへ。




道路
ベイタウンのコンセプトは、街区ごとに複数の設計者を起用して、変化に富んだ街並みをつくるこです。一方で、エリアごとにはある程度のまとまりが必要であるとも考えられています。
そのため、複数の街区からなる地区を幹事となる計画設計調整者がまとめてきます。その幹事計画設計調整者が、セントラルパークでは曽根さんであり、ビーチテラスでは大村先生でした。
幹事計画設計調整者は、地区のデザイン方針を決定するとともに、地区内の公共空間(道路や公園等)のデザインも担当します。私はここで緩やかに弧を描く道路の設計を担当しました。レンガの舗装パターンから始まり、車止め、街路灯、街路樹等の選定にも携わりました。

幕張アクアテラス(SH-2_1街区):2007年11月〜2010年3月

幕張ベイタウン計画もついに終盤にかかりました。幕張ビーチテラスの次は、駅から最も遠いSH-2街区が始まりました。
この街区は元々マンション用地ではありませんでしたが、千葉市の平均世帯人数が計画当初より少なくなったため、計画人口26,000人から逆算して戸数を増やすことになりました。事業者は、ベイタウン関わる全ての事業者でプロポーザルを行い、三井・清水グループが選ばれました。
曽根さんと私は、ここでもプロポーザル用の企画設計図を担当しました。海に面していることや、幕張ベイタウンの南東角に位置することなどから、千葉市側(ベイタウンも千葉市ですが)の玄関口として相応しいアイストップとなるような計画が求められました。
まずは高層街区の幕張アクアテラス。建物は沿道型とし14階建の板状高層棟を中心に構成しました。
その後はいつものとおり集会所の設計監理を担当しました。ここではCUBEと呼ばれる木造の集会所を4棟設計しました。この頃は保育所等、子どもの建築を多く手掛けてましたので、キッズルームが必ず入りました。
詳しくは、幕張アクアテラス「CUBE」のページへ。


THE幕張BAYFRONT TOWER&RESIDENCE(SH-2_2,3街区):2008年3月〜2015年9月
幕張ベイタウンの最期を飾るのは「THE幕張BAYFRONT TOWER&RESIDENCE」です。ベイタウンで最も高い約125mのタワーをシンボリックに建て、ベイタウンの南東端を閉める役割を果たしました。
アクアテラスが14階建の板状高層棟を中心に構成しているのに対し、この街区はタワーを中心に開放的でリゾート感あふれる計画としました。
ちなみに企画設計の真っ盛りに、石嶋家は息子を授かりました。妻は朝早くに産気づき、タクシーで産婦人科に連れて行きました。私は、あとはヒヒフーをやれば良いんだなと思っていたのですが、助産師から「しばらく生まれませんので、戻っていただいて結構です」と言われました。そのため当日午後に開催された会議の資料作成のために事務所に戻りました。また私は会議の司会をしていたので、ゼネコンの部長さんにその旨を伝え、司会を代わっていただきました。
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企画設計も完成し、集会所の設計を開始しました。平屋建で、タワーと中庭の中間に建ち、タワーの圧迫感を低減する役割も担っていました。
テーマはもちろんキッズルームです。ただ、これまでのキッズルームと異なるのは、身体を動かして遊ぶスペースの他に、switchやプレステ等の当時流行していたゲームをプレイするスペースを設けたことです。これまでは、子どもたちはマンションのエントランスゲームをすることが多く、ソファーを占拠して黙々とゲームをしているため、腰掛けたい人が座れないことや、エントランスの雰囲気にそぐわないという問題がありました。そこで今回は、積極的にゲームができるスペースをつくろうと考えました。
キッズルームは、3つのスペースに分けて計画しました。
1)アクティブコーナーは、様々な遊具を散りばめ、乳幼児が身体を動かして遊ぶことができる
2)ゲームコーナーは、背板が一部抜けた腰高の家具で緩やかに仕切った小学生以上が自由に遊ぶことができる。
3)ラウンジは、保護者が子どもたちを見守ることができるようにしました。
これにより、子どもたちはそれぞれの年齢や好みに合わせて、自由に遊ぶことができるようになりました。また、保護者はくつろぎながら子どもたちを見守ることができるようになりました。



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実施設計も順調に進み、さあ着工!というタイミングで大きな事件が起こりました。2011年3月11日の東日本大震災です。
デベロッパーやゼネコンは震災対応に追われる中、震災後の湾岸エリアのマーケット変動による影響を考慮し、構造の見直しや防災関連設備の充実等、災害対策に重視した設計変更が行わることになりました。だからといって工事費はそれほど増えないため何らかを削り、工事費を生み出す必要がありました。
こういう時に真っ先に目をつけられるのが集会所です。私が担当していたキッズルームは機能はそのままでありながらも、戸建の建物から高層棟の1階に変更となり、私の仕事は新築工事から内装工事に切り替わりました。
キッズルーム前を通ってみました。さすがにジロジロ見るわけにはいきませんので、さりげなく室内を見たところ、ベビーカーと数足の靴が。すでに7年経ってますが、まだ使ってもらえているんだとホッとしました。








あとがき
1991年秋から関わってきた、私の幕張ベイタウン物語は、2015年9月のTHE幕張BAYFRONT TOWER&RESIDENCEの竣工をもちまして完結いたしました。また、これは幕張ベイタウンが完成したということも意味します。
曽根さんから「石嶋は千葉大卒だから幕張担当」と言われてから、まさか24年間も関わるとは思ってもみませんでした。しかし、長期間にわたってひとつの仕事を続けましたので、やり遂げた感でいっぱいです。
24年間とはさすがに長期間で、公私ともに様々なことがありました。
・1991年:フレディマーキュリー死去、ソビエト連邦崩壊、曽根幸一・環境設計研究所入社(石嶋)
・1993年:EU発足
・1994年:カートコバーン、アイルトンセナ、金日成死去
・1995年:阪神・淡路大震災、Windows95発売、地下鉄サリン事件、パティオス3番街竣工
・1996年:パティオス11番街竣工
・1997年:香港返還
・1999年:マカオ返還、マリーンデッキ開通
・2000年:結婚(石嶋)
・2001年:アメリカ同時多発テロ事件
・2002年:ワールドカップ日韓大会、日朝首脳会談、拉致被害者5人帰国
・2003年:イラク戦争、SARS流行、セントラルパーク竣工
・2004年:イチローが年間最多安打新記録、曽根幸一・環境設計研究所退社、石嶋設計室創業(石嶋)
・2005年:愛・地球博開催
・2006年:株式会社石嶋設計室設立(石嶋)
・2007年:幕張ビーチテラス竣工、東京オフィスを墨田区横網に開設(石嶋)
・2008年:リーマンショック、息子誕生(石嶋)
・2009年:オバマ大統領就任、マイケルジャクソン死去、東京オフィスを江東区森下に移転(石嶋)
・2010年:幕張アクアテラス竣工
・2011年:東日本大震災、なでしこジャパン優勝、ビンラーディン殺害、金正日死去
・2012年:金環日食
・2013年:東京オフィスを中央区日本橋富沢町に移転(石嶋)
・2014年:クリミア併合
・2015年:THE幕張BAYFRONT TOWER&RESIDENCE竣工、幕張ベイタウン完成
幕張ベイタウン計画は、阪神・淡路大震災と東日本大震災等の自然災害やバブル崩壊やリーマンショック等の経済危機も乗り越え2015年に完成しました。
大規模プロジェクトが軒並み中止や延期になる中、マンションの供給量を調整したり、完成時期を遅らせたりすることで、市場の状況にあわせて事業計画を柔軟に変更しました。
官民が一体となって様々な工夫を凝らしながらマンションの供給を継続させた幕張ベイタウン計画は、希に見る優れた事業計画を持った住宅地計画だと思います。
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最近では、すっかり子どもの建築が多くなっていますが、今回、久しぶりに幕張ベイタウンを案内し、それをコラムにまとめてみて、私の建築士としての原点はココなんだなと再認識しました。
私の建築設計の手法は、まず自分がタタキ台の絵を描き、それを元にスタッフや各分野の専門家と議論しながら、より魅力的な建物に仕上げていくもので、まさに幕張ベイタウンでの設計手法そのものです。
この手法が正しいのか間違えなのかは分かりませんが、今から変えるのは難しいので、この設計手法をより極め、さらに良い建物を建築主様にお届できるよう、これからも努力していく所存です。
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最後までお読みいただきまして、ありがとうございました。