幕張ベイタウンについて想うこと(前編)
2022.11.22

もう1ヶ月以上も前の話しになりますが、スタッフを連れて私の青春「幕張ベイタウン」の見学をしました。
幕張ベイタウンは、千葉県が推進した幕張新都心地区の南側に位置している住宅地です。面積は84ha(なんと東京ドーム18個分。イメージ沸きませんが)で、計画人口26,000人です。総戸数は当初は8,100戸でしたが、千葉市の平均世帯人数の減少により、最終的には9,400戸になりました。
幕張新都心地区をもう少しわかりやすく説明すると、幕張メッセ、千葉ロッテマリーンズの本拠地であるZOZOマリンスタジアム、コストコ、イオンモール幕張新都心、三井アウトレットパークがある場所です。
マンションデベロッパーには、三井不動産グループ、清水建設グループ、野村不動産グループ、三菱地所グループ、幕張シティ(伊藤忠グループ)、丸紅グループ、都市基盤整備公団(UR)、千葉県住宅供給公社が参加しました。
幕張ベイタウン計画の特徴は、次の通りです。
- 碁盤目状の道路に沿って建てる「沿道型建築」による街並みデザイン
- 街並み形成の方針や沿道型建築のデザインなど、都市デザインについて具体的な展開のあり方を示した「都市デザインガイドライン」の制定
- 街づくりのコンセプトを理解し、都市デザインの担い手として調整業務に当たる専門家である「計画設計調整者」を各デベロッパーに専任
- 魅力的で変化に富んだ街並み形成のため、ひとつの街区に複数建築家を起用
私の師匠である曽根幸一氏(以下、曽根さん)は、以前に都市デザインガイドラインの作成にも携わっていたこともあり、デベロッパーの中でも級長的な役割を担う三井不動産グループの計画設計調整者として選任されました。
幕張ベイタウン(幕張新都心住宅地区)と私(石嶋)
「石嶋は千葉大卒だから幕張担当」と、入社半年後に曽根さんに言われて以来、マンションの企画設計、集会場・歩道橋・道路の設計まで、23年半にわたって、ベイタウン計画にどっぷり浸かってきました。私は13年と1ヶ月間(平成16年4月で退社。つまり今に至るまでずっとゴールデンウィークです)勤務した後、独立し、その後も10年間はベイタウン計画を携わりました。独立直後はベイタウンの仕事しかなく、2〜3年はベイタウンの仕事のみでご飯を食べさせていただだきました。
その後、小さな保育園の内装改修の設計を担当し、待機児童解消の波に乗って、現在に至っています。今では子どもの建築のウェイトが大きくなっている私ですが、元々はベイタウン計画で身につけた「都市デザイン」を生業にするつもりでした。
しかし、面接で「子どもの施設の設計をしたいの」とスタッフに言われたことに違和感を覚えました。そこで自分の設計活動の前半部分をスタッフに紹介するために「幕張ベイタウンツアー」を開催しました。
マリーンデッキ(歩道橋):1997年6月〜1999年6月

JR京葉線 海浜幕張駅で下車し、アウトレットモール、幕張海浜公園を抜けて、まずはベイタウンの玄関口である「マリーンデッキ」へ。
私はこれまで、建築設計はいくつか担当してきましたが(もちろんベイタウン内で)、マリーンデッキは初めての土木設計でした。一見同じように見える土木と建築ですが、設計や工事の作法が全く異なりカルチャーショックを受けました。
例えば基本となる長さの単位です。建築では「mm(ミリメートル)」ですが、土木では「cm(センチメートル)」です。土木設計の担当者は寸法を「○セン」と言い、1mを、土木の人は「100セン(チメートル)」と言い、私たち建築の人は「1000」とmmを省略して言います。土木の人がなぜ「チ」を省略するのかは聞きそびれましたが…。
マリーンデッキは、ベイタウンの玄関口に位置しているため、街のランドマークとしてデザインするよう、ガイドラインに位置づけられています。「街のゲート」として、新しい街を訪れる時の高揚感や期待感を煽る演出装置としてデザインすることを期待されました。
下記に出てくる超高層街区であるセントラルパークの幹事計画設計調整者は曽根さんでしたので、そこに隣接するマリーンデッキは、曽根さんの指導の元、設計が進められました。
マリーンデッキは2本の丸パイプの上にPC(プレキャストコンクリート)板を載せた歩道橋で、幕張新都心地区にあるようなアルミパネルで覆われたお化粧満載の歩道橋ではなく、構造美を強調したデザインです。歩道橋は建物と異なり、道路を渡る機能しかありませんので、何を根拠にデザインするか、かなり悩みました。
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マリーンデッキのスロープ(土木)と、下記のセントラルパークウエストの高層マンションの階段(建築)の高さを合わせ、並走させることは大変な作業でした。勾配や踊場の位置を調整して相互に行き来できるようにすること、階段に面して床レベルが異なる店舗を複数設置することなど、様々な調整がありました。
ベイタウンの反対側(公園側)は幕張海浜公園に着地し、弓形のスロープで公園中央部に自然に降りていきます。しかし、千葉県から「歩道橋は道路上で完結する必要がある」との指摘を受けました。そこで、公園の敷地を一部割譲して道路とし、歩道上に利用頻度の低い階段を設置しました。また、当初は駅側に向けたスロープだけを計画していましたが、「公園は駅への動線ではない」との指摘も受けました。そこで、公園の利用を促進するという目的でマリーンデッキから両側にスロープを延ばし、中央には見晴台と大階段を設置しました。


セントラルパーク(SH1-1,2街区):1993年秋〜2003年3月

続いて、超高層街区のセントラルパークです。これはほどんど私の青春でした。事務所に勤め始めて3年目、1993年(24歳)から関わり始め、2003年3月(34歳)の幕張パークタワーの竣工までお付き合いしましたので、足かけ10年間担当しました。
当街区は、3.2ha(東京ドーム0.68コ分)の敷地を半分ずつに割って、三井不動産グループと清水建設グループが、それぞれ事業化する予定でした。しかし、敷地の形状が比較的正方形に近かったため、分割の仕方によってそれぞれの敷地に大きな差が出ることがわかりました。そこで、2つのグループが一体となって開発した方がメリットが大きいと判断し、共同で開発することになりました。


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計画当初は、神保町にプロジェクトルームがあり、私も半常駐していました。鹿島建設、清水建設のゼネコン設計部の先輩から、建築について多くのことを学びました。日本を代表するスーパーゼネコンがしのぎを削って、企画設計を進めていたため、プロジェクトルームは常に戦場のような状態でした。曽根さんも交えた打合せではいつも白熱した議論が行われました。
が、それも今は良い思い出です。ここ2年はコロナの影響で中止されていますが、当時の担当者たちが集まって「同窓会」と称した宴会を毎年開催しています。30年前のことを懐かしみ、お酒を酌み交わしながらワイワイ騒いでいます。私も社長になり、こき使われることは少なくなりましたが、この会に行くとペーペー時代に逆戻りした気分になります。
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さて、思い出はこれぐらいにして計画内容を少々。
セントラルパークは、敷地面積3.2ha、1,005戸の大規模な超高層街区です。マンション用地は、西街区(セントラルパークウエスト)と東街区(同イースト)の2つに分かれており、さらに商業施設街区の3街区で構成されています。マンションの総戸数は両街区合わせて1,005戸の巨大な分譲マンションです。定期借地権付き分譲マンションと賃貸マンションが多いベイタウンの中、西街区は唯一の土地付き分譲マンションでした。
途中、バブル崩壊の影響もあり、計画は二転三転しましたが、現在の実現している200戸程度の細いタワーマンション2棟と12〜14階建の沿道型の高層棟で構成するマスタープランができあがったのは1989年の頃です。

ツインタワーと同様に、敷地の中央を貫通する並木道もセントラルパークのシンボルです。幅員はベイタウンの道路幅(建物の間隔)と同じですが、歩行者専用で、ケヤキの巨木を整然と連続させることで、ベイタウンの街路とは一線を画したデザインとしました。
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設計は西街区(セントラルパークウエスト)からスタートしました。曽根さんは設計調整と並行して、集会所2棟と中庭の設計監理を担当しました。第一期は沿道型住棟を建設し、第二期に中央にタワーが建設する計画だったため、工事ヤードの確保が優先され、残った三角形の隙間に鋭角な三角形の集会所をつくりました。
両集会所ともただのハコではなく、明確な目的をもった集会所としました。「アトリエハウス」は木工・絵画・陶芸に対応した集会場で、「キッチンハウス」はアイランドキッチンを備えて複数の家族でのパーティに利用できる集会所です。外観はいずれも室内での楽しげな活動が中庭ににじみ出るように、また狭い中庭でも視線が通るように、全面ガラス張りにしました。


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次は東街区(セントラルパークイースト)。ここでも集会所の設計です。西街区では「図工」「技術」「家庭」でしたので、今度は「体育」に対応した集会所「スタジオハウス」です。
1階はバレエやヨガに対応した小さなジム。一面鏡張になっており、バレエのバーも取り付けました。一方、2階は託児所としました。子どもの施設はさっぱり分かりませんでしたので、今見ると目を覆いたくなるようなことが満載だと思います。
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西街区も東街区も集会所の1階には、廃棄物空気輸送システム(通称「真空集塵」)のゴミ投入口があることも忘れてはいけません。ベイタウンは電柱がない街として当時から有名でしたが、実はゴミ収集車も走っていません。これは、道路の地中に共同溝という大きなトンネルが埋められており、そこに水道、電気、電話等に加えて、廃棄物の輸送管が設置されています。この輸送管につながっているのがこのゴミ投入口です。ゴミ投入口は全街区にあり、地中深くまで延びた筒にゴミを放り込んでおきます。スケジュールにあわせてセントラルパークに隣接したクリーンセンター(ゴミ収集施設)が吸い込むとゴミが瞬間移動します。
もちろん住棟の下に設置しても良いのですが、ゴミがスムーズに流れるためには半径○m以上の曲率で曲げないと行けないとか、急勾配はダメだとか制約が多く、また輸送管自体も太いので、住棟下で深い杭や大きな基礎の間をかいくぐるよりも、小さな集会所の下の方が有利なため設置されました。


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セントラルパークの設計中は、私生活でも大きな転換点がありました。プロジェクトルームにいた時に、妻と付き合い始め、3年ほど付き合った後、幕張パークタワーの設計開始前に結婚しました。結婚式には、三井不動産、清水建設(デベ)、鹿島建設、清水建設(設計)の担当者や建築家等、セントラルパークに関わった多くの方々に参列いただきました。また結婚式の1週間前にニューヨークへ視察旅行に行き、ホテルの部屋からエンパイヤステートビルに向かって締めのスピーチの練習をしていたことや、今はなきワールドトレードセンターに上登ったのも良い思い出です。
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ちなみにセントラルパーク以降、正式名称の脇に計画段階での仮称(○○-○街区)を記載しています。関係者しか知らないと思いますが…。頭がMはミドル=中層街区、Hはハイ=高層街区、SHはスーパーハイ=超高層街区です。
最後に2棟のタワーマンションの写真を掲載しておきます。




パティオス3番街(M2-3街区):1991年秋〜1995年3月

話しが前後しますが、ベイタウン計画に関わり始め、最初に担当したのがパティオス3番街でした。
約70×80mの長方形の敷地で、戸数は110戸程度だったと思います。まだ道路も整備されていない広大なベイタウンの中で、6街区のうちの1つとして先陣を切って開発されました。
道路に沿って住棟を建てる(=沿道型住棟)ベイタウンのデザインガイドラインを忠実に遵守した計画でした。一時期は映画やテレビドラマ、CM等にもよく使われていましたので、ご存じの方も多いと思います。
案外知られてないことだと思いますが、幕張ベイタウンのメインとなる道路は、南北軸から約20度ほど西に傾いています。これは、美浜プロムナードと並ぶメインストリートであるバレンタイン通り(2005年の千葉ロッテマリーンズの日本一のパレードで使用されたため改名されたが、元々は富士見通り)が富士山に向かった軸だと聞いています。
これまでの日本の住宅地開発では、大きな敷地の中に南向きの住棟を建てるのが一般的でした。しかし、幕張ベイタウンでは、長方形の街区の四周に沿って住棟を建てる新しい試みでした。そのため、南向きでない住宅も多く出てきます。さらに、道路が20度振れているため、西向きの住宅と東向きの住宅では日照時間が微妙に変わってきます。このような難しい条件の中で、曽根さんを中心に、暗中模索で企画設計を行いました。打合せはいつも終電まで及びましたが、それでもまだ結論が出ない状態で計画は進みました。
また道路に面してできるだけ共用廊下をつくらない(=北側にも居室を持っていく)ようにするため、北側の住棟ではスキップフロア(エレベーターを1,2,5階にだけ止め、3階は2階から1層階段で上り、4階は5階から1層階段で降りる)や、5,6階のメゾネット住宅を採用して、北側にも住宅の居室を設けました。バリアフリーやユニバーサルデザインが重視されている現代において、スキップフロアはすでに死語かもしれませんね。
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企画設計がまとまり、住棟設計を行う3人の建築家が加わり、1992年3月から基本設計がスタートしました。
曽根さんは、ガイドラインや企画設計の理念に沿うように住棟設計者を誘導し、創意工夫に富んだ提案をどんどん採用することで、より発展的なかたちで竣工させるのがメインの仕事でした。私はそのお手伝いを少しだけしました。また、曽根さんの元で、中庭にある小さな集会所と中庭の設計を担当しました。しかし、まだ事務所に入って1〜2年目で、初めての担当でしたので、全く何も分かりませんでした。住棟設計の建築家や、構造・設備設計の皆さんから、たくさんのご教示をいただきました。

1993年4月、3番街の建設工事が始まりました。6つの街区が同時に着工し、同じかたちの現場事務所が6棟並び、共同の食堂もあったと記憶しています。道路の工事も同時信仰でしたので、現場は大騒ぎでした。
1995年1月17日は、竣工直前で現場定例がありました。朝寝坊してダッシュで現場事務所に駆けつけたところ、テレビを見ながらみんなが騒いでいました。阪神・淡路大震災が発生したのです。大阪の建築家がいました。電話も通じず、とても心配しましたが、幸いなことに大きな被害はなく、胸をなで下ろしたことを記憶しています。
様々なことを乗り越えて、1995年3月には第一期入居の6街区が竣工し、美浜プロムナード上で盛大な街びらき式典が開催されました。
しかし、大きな空き地の中にポツンと建つ沿道型の6街区は滑稽な景観でした。これから開発が進み、街になっていくことは分かっていましたが、まだ沿道型住棟が対面して建っているのはカタカナの「キ」の字の部分だけでした。あとどれぐらいで街が完成するのかな…。となんとなく思いました。
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最後にパティオス1〜6街区の工事中の写真や、街開きの写真を載せておきます(こんな写真持っている人、私ぐらいしかいないはず)。




